やきものと絵画の趣味の方は、中和堂コレクションをご覧になって、2千年の歴史を持つ、中国陶磁と書画の名品をご堪能ください。

WEB中国陶磁史

稲作文化圏に育まれた中国陶瓷器


越州窯瓷器(磁器)の生い立ち

釉薬を掛けて高温で焼く瓷器は、長江(今の揚子江)の南部(現在の浙江省東南部)一帯に点在した、後に越州窯と呼ばれる窯を中心にして、今から2千年ほど昔の漢の時代に窯業としての工業化が確立されたが、焼成技術は経験の積み重ねで向上するために、ゆっくりと発達した。

この地方一帯では燃料や原料の瓷土が豊富に産出し、発達した水運による物流の効率化も相まって、自然発生的に窯業が発達したものである。
 

さらに同地方は、新石器時代から受け継ぐ農業を基盤とした伝統文化が発達していて、農家が使う土器や陶器などを自前で造る技術も古代から会得していたのである。
豊かな経済基盤と瓷器製造の発達には充分な環境が整っていたと言える。
 

古代の瓷器が青くなるまで8百年

原始瓷器と呼ばれる初期の瓷器は、木灰を釉薬に使用して酸化焼成だったので褐色の釉色をしたやきものであるが、悠久の長江そのものの様に改良には充分に時間をかけ、ようやく唐の時代に「秘色青瓷」と持て囃された極上の薄い青緑色の青瓷が完成したのである。何と8百年近くの年月を要したのである。

宮廷什器に瓷器を使う、官窯制度の芽生え

何故こんなに時間が掛ったのか謎も多いが、漢代~唐朝中期まで皇帝貴族が使う宮廷什器は金属器中心の時代が長く続き、瓷器の需要と言えばほんの一部の特別な副葬品や祭祀用の祭器を除き、民生用の粗器が中心だった為とも言われている。

この8百年間眠っていた瓷器産業を一気に揺り動かしたのが唐朝中期に発生したインフレで、銭(硬貨)を大発行する為に宮廷什器の金属器まで鋳潰してしまったので瓷器で代替するしかなく、更に「秘色青瓷」の開発成功と青瓷の独特の風合いが≪喫茶≫の大流行に併せて皇帝貴族の心をつかみ、競ってこれを買い求め大発展したのである。

窯業発展の根幹とは

然しながら、その後の官窯や景徳鎮の瓷器を中心とした2千年に亙る瓷器の発展の根幹は何で支えられたのだろうか?

中国歴代の国盗り物語をひもとけば、すさまじく戦乱と統治の交替を繰り返し、単一国家の我々日本人にはとうてい理解出来ない変遷史の中で翻弄された中国国民が、やきものを生業として窯場に定住し生き抜いてきた根幹は単に歴史の事実を重ねるだけでは見えてこなかったが、ようやくそれが稲作農業と切っても切れない関係があるのではないかとの思いに至ったのである。

最近の発掘調査によれば日本でも縄文時代に既に稲作が行われていたらしいが、朝鮮半島を経由して日本水稲の源流になったと言われる中国の稲作は、中でも長江下流の江南地方は、気候も水利も水稲に最も適した肥沃の地として数千年前には基盤農業として定着し、その後の2千年に亙る皇朝の発展を下から担い続けたのである。

これに反して北部の黄河流域の地方は寒暖差と乾燥が激しい為に麦作に頼る不安定な農業で絶えず飢饉におびえ、それが原因で度々の侵略と内乱の繰り返しになったのであった。

勿論、その時々の北方の為政者は肥沃な江南の地を攻めては厳しい年貢の取り立てを南部の人達に求めたが、争いを好まなかった南部の人達は充分な上納を果たしながらも自分たちは兵糧攻めに遭うことはなく、また民族紛争にも巻き込まれずに悠久の生活を今日まで支えて来られたのである。これは、お天道様と豊かな水とおおらかな天候に育まれた稲作農業に支えられた賜物であった。

窯業発展の諸要素

然しながら、この稲作文化と窯業産業がどの様に結びついたかを解明するには、陶瓷器の本質的な問題を理解しない限り解決しない。

この陶瓷器とは、地球上の岩石を粉にし成型して高温で焼いたものであり、基本的な岩石成分や成型焼成技術の原理は昔も今もほとんど同じであるが、過去から連綿と造られた星の数程のおびただしい陶瓷器は、一つとして同じものがないのも事実である。

古い時代から中国の窯業産業は数十種に分類される工匠達の集団により分業体制で量産され、名人芸的な個人技を一切排除した徒弟制度であった。その工匠達の技量と匙加減で出来上がる製品は全く違うものになるだけに、対価の取れる商品として造る為には、実に緻密な技術の集積と、長年の経験から生み出される開発力、気心のあった制作意欲と、完璧な品質管理の技術と運営能力、を総て満たして初めて可能になったのものであり、更に重要なのはそれらを総て何代にも亘って次代に残らず伝えて行くことであった。

この様な窯業産業のシステム技術は現代のロケット技術並みと言われ、コンピュ-タ-もない時代にこれを完璧に駆使した中国古代の先人たちには脱帽するしかないが、これを可能にした最大のポイントはシステムの糸を途中でほぐさず何代にも亘って最後まで編み上げた、粘り強い執念と努力が有ったからであろう。

越の窯業に携わる工匠は、一つの職種をその家系の生業にして代々と受け継ぎ、夫々の代で更なる改良と技術の蓄積を重ね、それを連綿と何十代と引き継ぎ、その工匠集団を窯の親方が取り纏め、時代の嗜好と注文主の需要に応じながら発展させて来たのである。

この最も大切な『途切れることないシステム技術の蓄積』とは、工匠の頭の中に叩き込まれたノウハウであり工匠の手に染み付いた感覚であるが、世情の不安、食いっぱぐれの不安、将来の不安、家族離散の不安などの状況下では絶対に受け継ぐことの出来ないものであって、それらの不安を払拭させる、工匠が安心して仕事に打ちこめる環境、それこそ江南地方の豊饒な稲作農業が基盤にあったからこそ瓷器産業が育ったと私は結論付けたのである。

古窯跡が教えてくれた教訓

近年、何ヵ所かの古窯跡(多くは昔の越州窯跡)を実見する機会が得られたので、現地の研究員に同じ質問をしたが、いずれも明確な回答が得られなかったことがある。
その質問とは、「窯跡の状況も良く判るし、夥しい陶片も確認出来て、当時の状況は大変良く理解できました。しかしながら、大きな疑問として、これだけの規模で長期間大量に焼成するために大勢の工匠達が働いていたと思いますが、彼らがこの窯で働いた日常生活の痕跡が何処にも見当たらないのはなぜですか?工匠達の住んでいた村落はどこにあるのですか?」と聞いてみたが、どの研究員はきょとんとして、何ら回答が得られなかった。

およそ星の数ほど焼かれたであろう大きな窯跡に、工匠達の生活の痕跡が見つからない事実こそが、実は重要なポイントではなかろうかと気が付いたのである。

中国の古代は黄河文明が発祥と言われていたが、近年、長江文明の方が黄河文明より1千年も先に始まっていたとの発表がされた。その理由として、黄河文明は城郭・都市などの目に見える遺跡の発掘で発祥が確認され易かったが、長江文明は農村中心のため城郭や都市化がされず、遺跡らしいものもほとんどなかったために、発掘が進まなかったためである。すなわち、農村地帯・村落は広く薄く分布していたので、調査出来ずにいただけのことであるが、農業中心の長江の流域では、早くから文明が育まれていたようだ。

このことから私は、古代の窯業と工匠達の関わりを次のように推論したのである。

窯場で働く工匠達の通常の本拠地は、農村(稲作)地帯の村落にある自宅であり、農繁期(稲作時期)は自宅から田圃に出て稲作を行い、農繁期(おもに冬期間)は、郊外山間部にある窯場に出勤して、他の工匠達と一緒に毎年同じ持場の作陶作業に精を出し、窯の仕事が一段落すると賃金をもらって村落の各自の自宅に帰ってくる、…ではないかと。

まさに、日本の戦後の東北地方で行われた「出稼ぎ」と同じ方式であるが、このシステムがあったればこそ、中国の陶瓷史は金字塔を打ち立てることが出来た、私は確信した。

中国の陶瓷がこれだけ長期間にわたり世界に君臨し、発達し続けた超緻密な技術の蓄積と、窯業としてのコストパフォーマンスの追求に耐え、さては官窯などと言う、単なる窯業からの産品で終わることなく芸術作品まで生み出してしまった、強力なパワーの源は、この「出稼ぎ」方式を於いて考えられない。

温故知新

同じ稲作文化圏にあって、肥沃な水田に水と太陽と種籾さえあれば安心して来年、再来年、そのずっと先の未来まで生活設計が立つ、そんな安定感を持ち続けて長年築き上げた我々日本人の大和文化も、残念な事に今や稲作農業を放棄しつつある現実の中で落ち着いて継承すら余裕は無くなりつつあり誠に残念である。

累積すれば幾千万人にも及ぶ歴代の工匠達が連綿と造り続けた陶瓷器も残された作品は僅かであるが、個人技を一切排除して無名の工匠達やそれを支え続けた民衆達の生き様を永劫に伝え続ける生き証人として、これら先人の遺産を大切に次の世代に伝える事が出来れば幸せである。

(*日本では「磁器」のことを、中国では「瓷器」と書くことが多いので、本文中は「瓷器」とした。)

平成22年12月

≪中和堂コレクション

宋 竹仙




a:4163 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional