やきものと絵画の趣味の方は、中和堂コレクションをご覧になって、2千年の歴史を持つ、中国陶磁と書画の名品をご堪能ください。

WEB官窯の変遷

  

中国瓷器・官窯の変遷


プロローグ:瓷器の発達は「貢献瓷」から始まる。

中国瓷器は、およそ2千年前に焼成の工業化に成功して主に民生用を焼きながら、その一部に貴人の貢献瓷として祭祀用祭器などを特別に焼いたようだ。今日、我々が目にする事の出来る当時の作品は、そのほとんどが明器(副葬品)として発掘されたものである。

第1期:晩唐~五代十国(10世紀~10世紀後半)の「貢献瓷」。

喫茶の流行にあわせて、陶瓷器の茶器が盛んになり、諸王は競って自慢の他碗などを特別に作らせた。呉越国の銭王が特別に創らせた≪秘色青瓷≫などはその例で、王侯専用に秘密裏に焼かせたのでその名がついた。

第2期:五代・後周(954~959)の「柴窯青瓷」。

柴世宗が南順の折に所望したとされる「柴窯青瓷」は、「貢献瓷」が皇帝の物として確立した最初である。この貢献瓷は≪雨過天青≫青瓷として名高く、この後に続く「汝官窯青瓷」のさきがけである。

第3期:北宋朝(960~1127)で官窯制度「貢献瓷」が花開く。

北宋朝で高度に発達した中華文化は、士大夫を中心とした「詩書画一体」思想に併せ、官窯制度「貢献瓷」は実用本位の什器から脱却して、色彩や造形に美的感性を持たせて芸術作品へと昇華した。中には皇帝の三種の神器すら出現した。
北宋全期に亘り「汝窯」で「汝官窯青瓷」と呼ばれる「貢献瓷」が焼成され、さらに北宋朝晩年の20年間に「新窯」と呼ばれた官窯が開封の皇城内に創窯され「(北宋)官窯青瓷」が焼成された。

第4期:南宋朝(1127~1279)は北宋朝の官窯制度を踏襲。

皇朝の初期は官窯が無く、やむを得ず龍泉窯や旧越州窯などで「貢献瓷」を焼かせたが、そのご、通称「修内司官窯」と言われる様式の青瓷を焼く窯が創窯され、技術が確立するに従って「郊壇下官窯」として体制を整え、南宋朝中後期の官窯瓷器を焼成した。
南宋朝は文化において北宋朝を超えるものはなく、官窯瓷器も感性の低いものが多い。

第5期:元朝(1279~1368)の官窯制度は休眠。

元朝では宮廷祭器什器は「貢献瓷」で調達した。モンゴル族の朝廷として正式な瓷器は白瓷だったようだし、青花瓷器も重用されたようで、これらの瓷器を調達するために景徳鎮窯が脚光を浴び始めてきた。

第6期:明朝(1368~1644)で確立した「官窯制度」の完全実施。

明朝建国2年(洪武2年/1369年)、洪武帝(朱元璋)は景徳鎮珠山に「官窯」を築かせ、諸窯の親方を強制的に集めて宮廷祭器什器を専門に焼かせて、その後の540年間ほど続く、明・清両朝に亘る官窯制度の基となった。

明朝以降は皇帝在位の年号で呼ばれるが、明朝と清朝の官窯は、明初期の「洪武官窯(1368~1398)」と「永楽官窯(1403~1424)」を除いた「宣徳官窯(1425~1435)」以降の官窯瓷器には、原則として年款銘を入れる習わしである。
青花・釉裏紅を中心とした景徳鎮窯瓷器は官窯制度の基で高度に発達し、永楽期に実行された鄭和の大船団による朝貢貿易では外貨獲得に大いに貢献し、国力の増強に役立った。

明朝中期の「嘉靖官窯(1522~1566)」では、「官搭民焼」と呼ばれる官窯瓷器の一部が民窯に外注する制度が出来て、官窯で培った親方が自分の窯に戻れることが出来たので、民窯の技術力も高まった。

明朝後半の「萬暦官窯(1573~1619)」では赤絵と呼ばれる五彩様式が官窯の主流となったが、焼成数量も多大となって粗製乱造のそしりをまぬかれず、晩期には国難により官窯制度は形骸化して休眠状態となり、併せて日本の伊万里瓷器の隆盛に景徳鎮の民窯も青息吐息であった。

第7期:清朝(1644~1911)官窯制度の終焉。

満州族の皇帝が支配した清朝は、それまでの漢民族明朝の遺産を大事にする政策を取り、官窯制度の復活に努めて、康煕19年(1680年)に清朝官窯制度を確立した。
予算も十分つけ、監督官も中央政府から景徳鎮官窯に派遣し、併せて「官搭民焼」も採用して技量とも充実した官窯制度の運用をして、数々の名作を残した。

清朝初代の「康煕官窯(1662~1722)」では、西洋技術との合作である「琺瑯彩」や、神品と言われる「桃花紅(豇豆紅)」などの傑作が生み出され、エネルギーに満ち溢れた彩色瓷器の草分けを果たした。

次の「雍正官窯(1723~1735)」では、老年で即位した雍正帝の感性を色濃く反映した落ち着いた作風が多く、官窯として倣古作品の再現にも意欲を燃やした。

乾隆「乾隆官窯(1736~1795)」では、ありとあらゆる造形の瓷器に挑戦し、上絵の色数も際限なく増え、官窯の焼造量も飛躍的に増えたが、長く続いた官窯制度もこの期の後半から凋落の道をたどり始めたのである。

乾隆年以降の西太后に象徴される清朝崩壊へのなだらかな坂は、その一端が乾隆年晩期辺りから始まっていたが、残された官窯瓷器の作行きに色濃く反映されている。乾隆年につづく「嘉慶官窯」、「道光官窯」、「咸豊官窯」、「同治官窯」、「光緒官窯」、そしてラストエンペラーの「宣統官窯」。その全てに見るべき作品が見当たらない。

エピローグ:「貢献瓷」から始まった「官窯制度」が瓷器の発達に寄与した。

約2千年に亘る中国瓷器の発展は、世界の窯業の発展に大いに寄与したことは萬人の認めるところであるが、伝統を保持し、技術を蓄積し続け、やきものを藝術域まで高めた、貢献瓷や官窯瓷器を生み出した「官窯制度」があったからこそ、発展したのである。

(*日本では「磁器」のことを、中国では「瓷器」と書くことが多いので、本文中は「瓷器」とした。)

平成23年5月

≪中和堂コレクション
宋 竹仙

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